あたしは今どんな顔をしているのだろう。
いつもとかわらずふりそそぐ灼熱の日差しと、まだ8時前だというのにやかましく騒ぎ立てるセミの声。ゆらゆらと立ち上る陽炎に、あたしの汗が落ちて黒くなったアスファルト。
あとは赤黒い塊とそこから滴り落ちる赤い液体。
この瞬間、あたしの世界にはそれだけしかなかった。
目覚めて数時間はありきたりの日常。
シンジがご飯を作り、ミサトが眠そうにビールを飲み、あたしはめんどくさそうに身支度を整える、そんな代わり映えしない風景だった。たぶん、それさえ見なければ今日という日は記憶の片隅に埋没してしまっていただろう。
けれど。
それは全くなんの前触れもなく目の前に飛び込んできた。
猫の屍骸。
車にでも轢かれたのだろうか。ちょうど体の中央から真っ二つに裂けてしまった三毛猫。元々は白と黒と茶色のその体は、黒く濁った赤と燃えるようなクリムソンと茶褐色に彩られた躯へと変わっていた。
音もなく横たわるその亡骸を、あたしはじっと見つめている。
否。
目を離すことができなかった。あたしは魅入られるようにそれを凝視していた。
猫の瞳は開かれたまま。
黒く濁ったその瞳にあたしの姿が上下反対に映りこんでいる。
その瞳が何かをあたしに語っている。
意味も、意図も、理由もわからない。
ただ、確実に何かをあたしに伝えてくる。
あたしの背筋をそれまでとは違う種類の冷たい汗が流れる。
何かしゃべろうとして口を開くが、声にならない。
あたしはこの感覚を前にも感じていた。
これが何なのか分からないけれど、心がこの感覚を覚えている。
あたしは必死になってそれを否定する。
それは思い出してはならないものだから。
意識してしまえば飲み込まれてしまうから。
………………マ……マ…………!
?!!!ッ
その瞬間、あたしは確かに中空に浮かぶだらりとした肢体を見た気がした
「……どうかしたの? アスカ……?」
振り向けばそこにはあたしを見つめるレイの姿があった。
ピィィーーーーーー
静けさに包まれた部屋の中に、突然高音が響く。びくっと大きく体を震わせたアスカは、音源を捜すかのようにめまぐるしく視線を宙に舞わせた。
「…沸かしていたお湯が沸騰したみたいだね。びっくりさせてしまったかな?」
先ほど見せた鋭い眼光とはうってかわって、ハヤトの瞳はそれまでの柔和なものに戻っていた。
「……」
だが、アスカはその言葉を無視して音源である電気ヒーターにかけられたヤカンを凝視していた。その表情は先ほどよりこわばっているようにすら見える。ハヤトはアスカの視線に沿うようにして部屋の隅の上に備えられている電気ヒーターのところまで移動すると、そのスイッチを切った。
再び部屋に静寂が戻る。
「…何か飲む?」
「…いらない」
スイッチが切られるのと同時に視線を元に戻したアスカの返事は、相変わらずぶっきらぼうなものだった。
「…そういえば」
ネルフのロゴの入った白いマグカップにお湯を注ぎながら、ハヤトは独り言とも取れる呟きをもらした。
「この間赤木博士に聞いたのだけど、猫って自分の死期が近くなると自然とどこかにいなくなってしまのだそうだよ。自分の死期を自分で 悟るなんてすごいよね」
そう言いながら再びアスカの前に戻ってくると、ハヤトはマグカップをデスクの上に置いた。
「アスカは猫を飼っていたことはある?」
「…ないわ」
「飼いたいと思ったことは?」
「…そんな暇、なかったわよ」
「そう……じゃあ、死んでいる猫を見たことはある?」
アスカの目がぎろりと大きく動いて、ハヤトの瞳を捕らえる。
「それ、何かカウンセリングと関係あるわけ?」
「別に」
一言そう答えて、ハヤトはマグカップに手を伸ばす。そして、ゆっくりとした動作でそれを口に運んだ。ゴクンとハヤトの喉が音を鳴らした。
「……ないわよ」
アスカがそう答えたのと、ハヤトがマグカップをデスクに置いたのとは同時であった。
「……それじゃ、そろそろ本題に入ろうか」
「…………」
無言で答えるアスカ。腕を組み、じっとハヤトを見据えるその姿には張り詰めた雰囲気が感じられた。
「まずは、レリエル戦のときのことについて聞きたいのだけど……」
そう言ってハヤトは万年筆のふたを取った。
ダン……ダン……ダン……
部屋の中にボールの跳ねる音がこだましている。ある程度加減された力で投げられたボールはほとんど同じ位置で放物線を描きながら、部屋の壁で跳ね返り、再び椅子に座った男の左手へと戻っていく。それはもう何度も繰り返された行為なのだろう。よくみれば、ボールがちょうど跳ね返る部屋の壁のところは微妙に黒く汚れていた。
男はデスクの前の椅子に座り、そのデスクには一台の端末が光をともしていた。数回に一度、男は端末のディスプレイに視線を向ける。そして、また無言でボールを投げる。その表情は何かを思案しているようにも見えた。
「暇そうですね」
女性にそう声をかけられて、男は十数度目にボールを投げようとして止めた。
「やることがなくてな」
左に向けていた体を正面――入り口のドアがある方――へと向けて、男は答えた。
「ネルフ広報部部長ともあろう人が、何も仕事がないんですか?」
右腕の中にさまざまな種類の書類を抱えながら、女性は皮肉たっぷりに問いかける。
「……戦自研から
そんな女性の態度にも全く動じることなく、男はボールをデスクの引き出しにしまいながら淡々とつぶやいた。もっとも、この程度の事で動じていたら、ネルフ広報部部長は務まらないともいえるが。
男の名前をブランダイス・マクガイヤという。そして、彼に皮肉をぶつけた女性の名前はマリア・グレイス。役職はネルフ広報部次長。ブランダイスの直属の部下だった。
「……たしかに、今回の後始末は大変でしょうね。何しろ、現存する全てのN2爆雷を世界中からかき集めたんですからね。で……」
そこまで言って、マリアは自分の抱えている書類の中から一つのファイルを取り出して見せた。ブランダイスに見せ付けるように。
「かわいい部下がその大変な後始末を少しでも楽にするために今のうちから一生懸命働いてるっているっていうのに、部長はここで何をされていたのですか?」
再びの皮肉。それもさっきよりもずいぶんとストレートに。
しかし、ブランダイスは何も答えず、黙ってディスプレイを見つめていた。
「……部長?」
意外にも無反応だったことを怪訝に思ったマリアはブランダイスの横に回りこみ、彼の眺めているディスプレイを覗き込む。画面上にはいくつかのウインドウが開かれており、それぞれが別の画像を映し出していた。
「……? これって……」
大半のウインドウには仕事に忙殺されている職員の姿が映し出されていた。そのさまはさながら修羅場のようだ。いくつかあるウインドウの中で最も大きく開かれたものには、半ば傾きかけた日の光を受けところどころ赤黒い光を放つ大きな球体が写っていた。
第12使徒レリエル。
現存する人類最大の脅威にして、倒さなければならない相手。
そして、初号機もろともサードチルドレンを体内に飲み込んだもの。
ゴクン………
マリアは体がこわばっていくのを感じた。
それが恐怖によるものであるということも。
「……学生時代、同級生に車の運転が好きなやつがいてな……」
唐突にブランダイスはそうやって切り出した。
その視線はここではないどこかを見つめているかのようだった。
「……俺はいつもそいつに乗せてもらっていろんな所に行った。ニューヨークから西海岸までアメリカ大陸を横断したこともあったっけな……あるとき、いつものように俺がそいつの車の助手席に乗っていると交差点で車がいきなり突っ込んできた」
「…………事故、ですか?」
ブランダイスの意図はわからなかったが、マリアはとりあえずそう言って先を促した。
「ああ、そうだ。……今でもはっきり覚えている。そいつの服……カーステレオから流れていた音楽……話していた内容……それに、信号が青だったって事もな」
「……それで、どうなったんです?」
「相手の車は左側から突っ込んだ。ほとんどノンブレーキでな。……おかげで俺はたいしたことはなかったが、そいつは即死さ。」
「………」
「……ショックだったな。ほんのついさっきまで一緒にバカやってたのに、病院で俺が気付いたら、そいつはもう
「………でも、ちゃんと立ち直られたんでしょう?」
マリアの言葉にブランダイスはやっと視線を彼女へと向けた。
「……半年かかった。おかげで、卒業が一年遅れたよ」
一瞬だけマリアに向けられた視線は、再び宙を舞い、端末のディスプレイへと移り行く。
「……あの時、俺は20歳だった。まだまだガキだったが、それでも未成年じゃなかった……今、この子達は14歳か……」
そこでマリアは初めてブランダイスが何を言いたかったのかを理解した。同時に、彼が何を思ってこの部屋でボールを投げていたのかも。
ブランダイスはそれっきりディスプレイを見つめたまま押し黙った。
沈黙が部屋を支配する。
「……そういえば、」
ふいにマリアが声を上げた。
「私、使徒が殲滅された後、N2爆雷を徴収された国々に向けて発表する声明文を考えたんですけど、聞いてもらえます?」
ブランダイスが何も言わないことを同意と判断したマリアは、右腕のファイルから一枚の紙を取り出した。
「読みますね? えっと……繰り返し強調しているようにネルフは決して自らのために力を使うようなことはしない。ネルフの力はあくまで使徒に対してのものである。そして、我々にとって最も重要なことは、我々には使徒に対して戦力を温存しているような余裕などないということだ。あのとき、あの瞬間において、3人のチルドレンの中で一番実績を有し、戦力の高いサードチルドレンを救出するためには、992個のN2爆雷が絶対に必要だったのだ」
そこまで一息で読み上げると、マリアはブランダイスへ視線を向けた。
「……どうです、部長?」
ブランダイスは黙っている。ただ、一度だけ、大きく息を吸い、そして吐いた。
「……救出が成功しなかったときのパターンはないのか?」
「ありません」
きっぱりとマリアは言った。
「…なぜ?」
「だって、きっと必要ありませんから……それに、私、自分の想像を大きく上回ることは書けないんです」
ブランダイスが視線を上げる。マリアの顔は真剣そのものだった。
二人の視線が空中で絡み合う。
「……必要ない、か……フッ……」
ブランダイスが自嘲気味に笑う。それは自分に何かを確認させるかのような笑みだった。
「まるでだめだな」
やがて、彼は一言そう言い放った。
「……まるで…ですか?」
「当たり前だ。いいか? ネルフの目的は使徒の殲滅であってチルドレンの救出じゃない。それを忘れてどうするんだ?」
その言葉は、いつものようにアイロニーに満ちていて、どことなくシニカルな感じを醸し出していた。
「あ、そっか……それもそうですね」
完全否定されたにもかかわらず、マリアの顔には少しも落ち込んだ様子はない。
「……じゃ、あっちきて一緒に考えてくださいな。ドナもマーガレットもいますから」
そう言ってマリアは微笑んだ。それもまた、いつものことだった。
「………仕方ないな。ブルー・ルームか?」
「いえ、今日はレッド・ルームです。ブルー・ルームは作戦部が使用してますから」
「すぐに行く。先に行っててくれ」
「分かりました。じゃ、お待ちしてますね♪」
場違いなほどに明るい声で、マリアはそういい残すと部屋を出て行った。そんなマリアの行動に内心で苦笑しながら、ブランダイスは視線をディスプレイへと向けた。彼はウインドウに映し出されている映像を一瞥すると、端末の電源を落とし、席を立った。
ディスプレイが真っ黒になる直前、最も小さなウインドウには紅い色のプラグスーツを身にまとった少女が映っていた。
アスカが扉を閉めると、外の喧騒はほとんど聞こえなくなった。
(……へぇ、なかなかよくできてるじゃない)
それは今のアスカにとってとてもありがたいことだった。そのままアスカは一つだけあるベンチへと腰掛ける。そこにあるのは、そのベンチと少し小さめのロッカー二つだけだ。
そこは移動式簡易ロッカールーム。本部のそれに比べれば狭いものの、シャワーも空調もちゃんとついており、トラックの荷台を改造して作ったにしてはとてもよくできているといえた。
ドクン……ドクン……ドクン……
静まりかえった部屋の中で心臓の鼓動がやけに大きく聞こえてくる。
妙な感覚だった。
いつもなら出撃前のこの瞬間、自分は高揚感と期待感に包まれていた。
使徒との戦闘は、エヴァに乗ることが自己実現の証である自分にとって最高の舞台なのだから。
なのに今日は一体どうしたというのだろう。
今の自分に生じているこの妙な感覚は何だ。
それに。
さっきから特定のイメージが頭に浮かんで離れない。
黒く濁った赤と燃えるようなクリムソンと茶褐色に彩られた躯。
底なしかと思わせるほどに深い黒色をした瞳に移りこんだ上下反対の自分の姿。
それらにダブって蘇る虚空に浮かぶ白い素足の映像。
何度ふりはらっても決して消えることのないイメージ群。
そのイメージが妙な感覚を増殖させ、自分を少しずつ犯していく。
静かなところで集中するれば消えるかとも思ったが、意識を不可避的に持っていかれる雑音がない分だけ逆にイメージが強まったようにすら感じられた。
「……どうしたっていうのよ。あたしは」
…………コン、コン
アスカが思わずそうつぶやいたとき、部屋の中にノックの音がこだました。反射的に扉の方をみるアスカ。
「……アスカ、ちょっといいかしら?」
返事をしようかどうか迷っていると外からそう声がかかる。それはアスカが今最も会いたくない人物の声であった。
「……いいわよ。入ってくれば」
アスカがそう返事をすると、間髪いれず扉が開いた。今まで薄暗かった部屋の中に突然強い光が差し込んでくる。その光の中心に、斜陽を浴びてさらに赤みをましたジャンバーと、一層艶っぽい光を放つ紫色の長髪が見えた。やがて、彼女が部屋に入り扉が閉まると、光とともに雑音も消え、再び静寂と暗闇が部屋を支配する。
「…………」
腕を組み、扉を背にして彼女は立っていた。誰も何も言わなかった。
「……なに、ミサト?」
先に口火を切ったのは意外にもアスカだった。あるいはただ沈黙に耐えられなくなっただけなのかもしれない。
「…………」
それでもミサトはすぐには何も言わなかった。アスカは横目でちらっとミサトの顔を見た。少しうつむき加減に視線を下に向けているミサトの表情は、部屋の薄暗さも手伝ってアスカはほとんどうかがい知ることができなかった。
「……何か、あったの?」
いい加減アスカが痺れを切らしたころ、ミサトはやっと一言そう言った。それはミサトらしくない、ためらいがちな口調だった。
「……別に。なんで?」
対して、アスカの口調は少なくとも表面的には普段通りのように思えた。
「……いえ…ただ、なんとなく……ね」
「……考えすぎよ」
アスカは髪を掻き揚げた。金色の髪の毛が薄暗い虚空へと舞った。
トゥルルルートゥルルルー……
突然、ミサトの携帯が鳴った。
「はい……そう、わかった。すぐに行くわ」
電話が切れた後も、少しの間ミサトは携帯を見つめていた。
「……アスカ、作戦開始10分前よ。弐号機でスタンバイして」
しばらくしてそう言ったミサトの口調は、指揮官としてのそれだった。
「……わかった。先に行ってて。すぐ行くから」
アスカがそう答えるのを確認して、ミサトは扉の外に出た。先ほどまで世界を真っ赤に染めていた太陽の光はもうほとんど消えかけて、あたりには夜の帳が下り始めている。かすかに残った光を頼りにミサトは空を見上げた。
そこには夜の闇よりも暗い黒衣をまとった球体が圧倒的な存在感を示していた。